有馬 稲子

有馬 稲子について

有馬稲子は、宝塚歌劇団4期生だった義母の下で育ち、1949年に36期生として宝塚歌劇団に入団、二代目有馬稲子を襲名して、主演娘役として活躍した。

在団中の1951年、東宝『寳塚夫人(宝塚夫人)』で映画デビュー。元々、宝塚在団中から新劇のファンで、映画業界への誘いにも抵抗がなかったと後日話している。さらに1951年7月に映画『せきれいの曲』で初主演を果たし、1953年の3月25日に宝塚歌劇団を退団、東宝の専属女優となり、女優業をスタートした。

1954年には岸惠子・久我美子と共に設立した「文芸プロダクションにんじんくらぶ」でも活躍し、自ら出演作を決めたりする型破りな活動を行っていた。1955年に松竹に移籍してからは、岡田茉莉子と共に松竹の二枚看板として活躍した。

1961年11月27日、俳優の中村錦之助(萬屋錦之介)と豪華な結婚式を挙げた。しかしその後有馬は、過酷な家事で心身ともに疲れてしまい、結婚から約3年7ヶ月後に離婚。そして1969年には実業家の河村三郎と再婚したが、1983年に再び離婚している。2度の結婚生活の中で子供はいない。

現在は11年前から介護マンションで生活していると『徹子の部屋』で明かしており、穏やかな生活を送りつつも、役者としてのキャリアはまだ確実に積み上げているという。愛称は「ネコちゃん」「おイネ」である。

基本プロフィール

芸名 有馬 稲子 (Ineko Arima)
本名 中西盛子 (Mitsuko Nakanishi)
ニックネーム
国籍 日本
性別 女性
身長 158cm
体重 0kg
血液型 A型
誕生日 1932年04月03日 (87歳)
干支
星座 おひつじ座

所属

レコード会社
事務所 ホリプロ
事務所入所年

所属

レコード会社
事務所 ホリプロ
事務所入所年
デビュー年

交際相手、彼氏・彼女に関する噂・報道

当時2人の結婚披露宴は、招待客が約1000人以上、用意されたウェディングケーキは高さ2メートル、当時の値段で16万円もしたという。そしてそれが日本映画界を代表するトップスター同士の結婚にふさわしい豪華結婚式となり、話題となった。結婚のお祝いとして「有馬錦」という日本酒の銘柄が造られ、さらに中村の父から900坪の土地を京都に与えられ、150坪の邸宅を構えた。

しかしその後、嫁姑問題や家事の過酷さなどが有馬の中で蓄積し、離婚を発表した。その頃、離婚前の4月に「独占特報 中村錦之助・有馬稲子夫妻が離婚決意」というタイトルの記事を掲載した女性週刊誌を名誉毀損で訴えており、離婚会見の際も「その段階では事実無根だったため、告訴は取り下げない」と強い言葉を残している。

その後錦之助は、淡路恵子と再婚・離婚。そして甲にしきと再々婚し、1997年3月、咽頭がんのため逝去している。

2010年の有馬が日経新聞朝刊で執筆した「私の履歴書」で、20代に市川崑監督と泥沼不倫に及び、中絶まで強いられた事実を明かしている。そしてこの事件が、当時求愛されていたという萬屋錦之介との結婚への決定打になったと書かれており、彼女が結婚を決めた際は「どうしても結婚するというなら仕方がない。その代わり、3月に1度でいいから、今までと同じように会うと約束してくれ。どうしても別れたいなら、今まで君に注いできた愛情の責任を取れ。自分にも考えがある、明日の新聞を見ろ!」と脅迫めいたことを言われたと赤裸々に暴露している。

市川崑は、これが書かれる2年前の2008年にに亡くなっている。だからこそ暴露できる事実だった。

好きなタイプ

性格

有馬稲子が1954年に岸恵子や久我美子らと立ち上げた「文芸プロダクションにんじんくらぶ」で、所属映画会社に縛られず自分の意向でさまざまな映画会社の作品にも出演できる、当時としては非常に新しい試みをしていた。20代の若さで、自分から仕事を獲得しにいく積極性から、当時は「じゃじゃ馬娘」という印象が強かった。

趣味

有馬稲子の趣味は、ガーデニング、掃除、ふとん干し、ウォーキング、水泳である。

現在、有馬が住んでいる横浜のマンションの中庭にある「モネコ・ガーデン」では、彼女が中心となって住民とガーデニングを行っているそうで、「花を育てるのは『人間の究極の楽しみ』」とコメントするほど、ガーデニングに時間を割いている。

特技

有馬稲子の特技は、日本の伝統芸能のひとつである三味線である。また、腹筋を1日1000回も行うという筋トレ好きである。

デビュー前の経歴

有馬稲子は4歳の時、釜山にいる父の実姉の義母となる中西かねの元に連れて行かれ、そこからかねを実の母と慕って生活をスタート。中西かねは1916年から1926年にかけて(初代)有馬稲子(旧字体:有馬稻子)の芸名で宝塚歌劇団4期生として在団していた経歴があり、退団後は藤間流の名取りで日本舞踊を教えていたため、有馬稲子もその影響で日本舞踊を習っていた。

戦争が終わり、有馬稲子は中西かねの手配で引き揚げ船に乗り、命からがら下関に逃れた経験が、原体験になっていると語っている。引き揚げ後は実父などと暮らすが、実父からの虐待や弟妹たちとうまくいかなかったこともあり、自殺を考えた時期もあったという。

そんな中、1948年に友人からの薦めによって宝塚音楽学校に入学。天性の美貌や演技力で、瞬く間にトップスターの座に上り詰めることとなった。

出身・家族・学歴

兄弟
出生国 大阪府
出生地域
高校 釜山公立高等女学校→大阪府立夕陽丘高等女学校
大学 進学せず

解散・引退について

周囲からの評判

近年の『文芸春秋』の取材で、雑誌社側が「取材時にまず写真を撮り、インタビューをその後にしたい」と提案したところ、有馬は「せっかく午前中、美容院に行ったんだから」と写真を先に撮影したいと提案し、何才になっても美しくありたいという意思をきちんと伝えたことから、「写真を撮るなら美しく。さすがは女優だ」と評されている。

整形

なし

好きな食べ物

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